シュラクサイのデカドラクマ
| 英語名 | Syracuse Decadrachm |
|---|---|
| 発行地域 | シュラクサイ(シチリア) |
| 時代 | 紀元前405〜400年頃 |
| 素材 | 銀 |
シュラクサイのデカドラクマは、古代コインの美術的な頂点とされる大型銀貨です。
そしてもうひとつ、極めて珍しい特徴があります。彫刻師が自分の名前を刻んでいるのです。
キモン署名入りのデカドラクマ(紀元前405〜400年頃)。重量42.3g、直径35mm。左が表面の四頭立て戦車、右が裏面のアレトゥーサ。
基本情報
紀元前405〜400年頃、シチリア島のシュラクサイで発行されました。額面は10ドラクマです。
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| 重量 | 約42〜43g |
| 直径 | 約34〜38mm |
| 素材 | 銀 |
米国貨幣学会所蔵の実例では、42.3g/35mm、42.82g/36mm、43.11g/37.8mm といった個体が確認できます。手打ちのため個体差があります。
アテナイのテトラドラクマが約17.2gですから、2.5倍近い重さです。当時のシチリアで流通した貨幣のなかでも最大級の額面でした。
図像を読む
表面:戦車と勝利の女神
四頭立ての戦車(クアドリガ)を駆る御者が描かれ、その上方を勝利の女神ニケが飛んで、御者に冠を授けています。
多くの個体では、下部のエクセルグ(区画)に武具一式が刻まれています。銘は ΑΘΛΑ(アトラ)で、「褒賞・戦利品」を意味します。
裏面:アレトゥーサとイルカ
ニンフアレトゥーサの横顔が左を向き、その周囲を4匹のイルカが泳いでいます。銘文は ΣΥΡΑΚΟΣΙΩΝ(シュラクサイ人の)です。
アレトゥーサとは誰か
なぜニンフがシュラクサイの象徴なのか。ここには伝説があります。
ペロポネソスの川の神アルペイオスに求愛されたニンフ、アレトゥーサは、女神アルテミスによって泉に変えられました。そして地下水脈となって海底を潜り抜け、シュラクサイ港内の島オルティージャで再び湧き出したとされます。
この泉は現在も実在し、シュラクサイの街のシンボルになっています。
つまり裏面の図像は、この都市がどこから来たのかという物語そのものです。イルカは、彼女が海を渡ったことを示しています。
二人の彫刻師
エウアイネトス署名のデカドラクマ(重量42.82g、直径36mm)。髪型に注目すると、キモンの作例との違いが見えます。
署名の位置
| 彫刻師 | 署名 | 位置 |
|---|---|---|
| キモン | ΚΙΜΩΝ または ΚΙ | 首下のイルカの上、または髪飾り(アンピュクス)の中 |
| エウアイネトス | ΕΥΑΙΝΕ | 首下のイルカの近く、図案の周縁部 |
キモンの作例には、同じ銘が3回刻まれた個体もあります。
作風の違い
ここが鑑賞の要点です。
- キモン — 宝飾入りの網と幅広の髪帯でまとめた、抑制的な表現
- エウアイネトス — 麦穂または葦の冠を用い、自然でほつれた質感の髪型
上の2枚を見比べると、髪のまとめ方が明確に違うことが分かります。
なぜ署名したのか
紀元前5世紀末のシチリアで、彫刻師が極印に署名するのは異例でした。
しかしシュラクサイでは、キモン、エウアイネトス、エウクレイダス、フリュギロス、エウアルキダスと、複数の彫刻師が競うように署名を残しています。
背景には技量への誇りと、彫刻師どうしの競争意識があったと考えられています。
貨幣を「作品」として意識していたという点で、この時期のシュラクサイは特異です。
何のために発行されたのか
**発行目的は決着していません。**主に2つの説があります。
- 競技会の褒賞説 — 紀元前413年のアテナイ軍撃退を記念して開かれた「アッシナリア競技会」の賞品として
- 傭兵への支払い説 — 僭主ディオニュシオス1世が軍資金として発行させた
表面下部の武具(ΑΘΛΑ)の解釈も分かれています。対アテナイ戦の戦利品を競技会の褒賞に転用したとする説、戦勝記念碑を表すとする説、単に競技会の賞品としての武具とする説があります。
どれか一つに断定できる段階ではありません。
なぜ希少なのか
理由は2つ挙げられています。
- 高額面のため、実際の流通期間が短かった
- その後の混乱期に溶かされ、地金に戻された
なお比較として、隣接するアクラガス(現アグリジェント)も紀元前409〜406年頃に約42gのデカドラクマを発行しています。こちらはわずか5組の極印から作られ、現存約10枚とされます。同じシチリアでも希少性の桁が違います。
市場での評価
確認できた落札実績です。
| 日付 | オークション | 内容 | 結果 |
|---|---|---|---|
| 2014年8月8日 | Heritage | エウアイネトス様式(無署名)、NGC Choice AU | 34万750米ドル |
| 2013年11月18日 | NAC/Tradart | 署名入り、EF | 40万スイスフラン |
| 2023年1月13日 | Stack’s Bowers | キモン署名、NGC Extremely Fine | 10万8000米ドル |
| 2023年9月 | Morton & Eden | キモン署名、EF | 32万ポンド |
| 2023年9月 | Morton & Eden | エウアイネトス署名、Good EF | 13万ポンド |
| 2023年9月 | Morton & Eden | エウアイネトス署名、EF | 4万ポンド |
署名による価格差は単純ではありません
2023年の Morton & Eden では、キモン署名(32万ポンド)がエウアイネトス署名(4万〜13万ポンド)を大きく上回りました。
ただし単純な序列ではありません。同じ売却で、キモン署名は予想額60万ポンドを下回り、エウアイネトス署名の1点は予想額8万ポンドを上回っています。
**予想額との乖離は両方向に起きます。**この点は、価格が一定の法則で決まるわけではないことを示しています。
なお表の金額は、ハンマープライスと手数料込みの総額が混在している可能性があります。また通貨も米ドル・スイスフラン・ポンドと異なるため、単純な比較はできません。
いずれも執筆時点で確認した情報であり、相場は変動します。
贋作について
この貨種で名前が挙がるのは、19世紀ドイツの贋作師カール・ヴィルヘルム・ベッカー(1772〜1830)です。
1806年頃から古代コインの贋作制作を始め、そのなかにキモン作のシュラクサイ・デカドラクマを模したものが含まれていました。
**興味深いことに、ベッカーの贋作自体が現在では収集対象になっています。**2013年3月には Classical Numismatic Group のオークションで1,092.50米ドルで落札された記録があります。
なお、ルネサンス期の「パドヴァ物」との関連を述べる情報もありますが、調査した範囲では、パドヴァの彫刻師が主に模したのはローマ帝政期の大型青銅貨であり、この貨種との関連は確認できませんでした。
誤解しやすい点
キモンの「正面向きアレトゥーサ像」について注意が必要です。
キモンが正面向きの顔を彫った革新で知られるのは事実ですが、それはテトラドラクマ(4ドラクマ)での作例です。
この記事で扱っているデカドラクマの裏面は、いずれも横向きです。混同しやすいので、資料を読む際はどの額面の話かを確認してください。
もうひとつ。この記事の「キモン/エウアイネトス型」(紀元前405〜400年頃)と、より古い「デマレテイオン型」(紀元前480/479年頃)は別のデカドラクマです。
まとめ
- 額面10ドラクマ、約42〜43gの大型銀貨です
- 裏面のアレトゥーサは、海を渡ってこの地に湧き出したという都市の起源伝説そのものです
- **キモンとエウアイネトスが署名を残しました。**古代では極めて異例です
- 作風の違いは髪型に最もよく表れます
- 発行目的は競技会の褒賞説と傭兵支払い説があり、決着していません
- 価格には大きな幅があります。署名の有無だけで決まるわけではありません
アンティークコインの価格は市場動向・状態・希少性により変動します。売却したいときにすぐ買い手がつくとは限りません。購入にあたっては、こうした点も踏まえてご判断ください。
古代ギリシャの貨幣全体は古代ギリシャコイン入門、ほかのコインはコイン図鑑からご覧ください。
本記事は情報提供を目的としたものであり、特定の商品の購入を勧誘するものではありません。アンティークコインの価格は市場動向・状態・希少性などにより変動し、将来の価値を保証するものではありません。記載の価格は執筆時点のものです。購入の判断はご自身の責任でお願いします。
どのコインから始めればいいか迷っていませんか
予算別に、最初の1枚として現実的な選択肢をまとめています。
予算別スターターキットを見る実際に購入を検討される方へ
当サイトの運営者は、アンティークコインを扱う店舗を運営しています。記事で解説した内容は、実際の売買を通じて得た知見にもとづくものです。
運営者情報はこちらをご覧ください。